生産性のない時間 is プライスレス

分業は難しい——としか言いようがない - 思考のスクラップ

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※ この文書はChatGPTに文章化を手伝ってもらいました。内容(観点や論点)は自分自身のものですが、言葉遣いや構成にはAI的な整形が入っています。内容単体では特に目新しいことを言っているわけではないので、その点は見逃してください。

このスクラップは、組織やチームにおける分業・協働のあり方について、個人的な観察や思考を整理しようとする試みです。具体的な組織や実例に直接依拠するものではなく、あくまで抽象的な構造の捉え方や問いの立て方を扱っています。内容は即実践というよりも、思索の過程を言葉にしておくための備忘録的なものです。

結論。分業はしすぎてもよくない。しなさすぎてもよくない。

では何も語れないのでさすがにもう少し深掘りする。

分業の“ちょうどよさ”は、集団のスキルセットや関係性によって変動する。つまり、世の中にある「理想的な分業モデル」や「職域ごとの正解」をそのまま当てはめようとしても、あまり意味をなさないことが多い。

ただし、市場の平均値や業界標準を知っておくことには価値がある。自分たちの立ち位置やズレに気づくための、あくまで“物差し”として使えるからだ。

役割の図式化は現実をすくいきれない

営業と開発を両端に置いた直線の図──いわゆる「ビジネス ↔ プロダクト」構図。確かに説明としては便利だ。しかし、実態はもっと複雑だ。

同様に、「チーム全体を100として職種ごとに割合を割り振る」ようなメーター式の分業図もまた、見た目以上に不正確である。なぜなら、人には得意不得意があるし、職域によってスキルセットの方向性が異なるからだ。

属人性、関係性、タイミング、得意不得意──そうした“ゆらぎ”を含めずに描かれたモデルは、図としては整っていても運用には耐えられない。


分業は「最低ライン」や逸脱を扱うための仕組みである

私の考える分業を無理やり言語化してみるとこの感じになる。

組織全体ので分業を明確に定義するのだったら、まずやるべきことは「現在地を見極める」ことだ。

その上で、業界動向や事業目標、人材採用状況などを踏まえた「3年後のあるべき姿」を定義する。これは“理想的な分業構造”を設計するためではなく、ギャップを可視化し、そこに向かうための成長の方向性を定めるためだ。

成長とは「全体として最低限満たすべき水準を上げていくこと」でもある。

その際、あきらかに平均に届かない部分や、逆に平均を大きく超えている部分は、無理に全員がやるのではなく「分業」として切り出したほうが自然だ。つまり、分業とは「共通の基準に届かない部分」や「突出した部分」をうまく吸収し、組織の多様性を維持するための仕組みでもある。


「人」に平均を敷こうとするから無理が出る

平均というより、最低限満たすべきラインを敷くのは“人”ではなく、“成果物”や“プロセス”の側であるべきだ。とふと思った。

■ 成果物に対して基準線を引く

これらに対して「このくらいは最低限ほしい」という基準を置く。誰がどの職種かにかかわらず、その基準に到達するかどうかが評価の軸になる。

■ 職域をまたぐ“接点”にこそ共通の基準を

接続点共通の評価軸
企画 ↔ デザインユーザーストーリーの明確さ、画面遷移の網羅性
デザイン ↔ 開発コンポーネントの再利用性、レスポンシブ対応
開発 ↔ 経理工数や費用の見積精度、納期意識
全体 ↔ 顧客目的への適合度、説明の一貫性、成果物の納得度

このように、人ではなく“成果物のインターフェース”に期待値を設定することで、職域の違いを尊重しながら協働が可能になる。

こう考えてくると、ある意味では当たり前の話にも思えてくる。職域をまたぐ接点に対する基準やインターフェースが明確に設定されていない状態で分業を成立させようとするのは、無理がある。

期待値が共有されていないのに役割分担をしても、認識のずれ・手戻り・責任の所在不明瞭など、分業の効率どころか組織の停滞につながりかねない。

分業とは、本来「自律した領域を分けること」ではなく、「接続可能な境界を設計すること」なのだと思う。

また、そうなると必然的に接点を扱うことがうまい人が評価されやすい、となってくるのかもしない。が、それが唯一の評価軸になってしまうのはそれはそれで違和感がある。接点の統合が得意な人と、個別具体の専門性を深く掘れる人は、本来並列に尊重されるべき。

むしろ、それぞれが補完し合うような構造がなければ、どちらか一方の価値だけが正当化される組織になってしまう。その状態では、分業も協業も持続しない。

こうして考えてみると、いっそ個別最適化が強く働いている場合には、下手に接点や連携を意識して分業しようとするよりも、サイロ化して完全に分断したほうがうまくいくケースすらあるのではないかという気もしてくる。

もちろん、それは「連携が不要」なのではなく、「接点が設計されないままに連携しようとすること」の方がよほどリスクになるという意味だ。むしろ意図的なサイロ設計と、その上での最小限の接続設計というのが現実的な折衷案なのかもしれない。

ただ、この“サイロ化 vs 接点設計”の話は、単純な二項対立ではなく、状況や規模によって動的に揺れるものであるとも感じる。

ここまで考えてきて、抽象的な整理としてはある程度の輪郭を持ってきたものの、実際にこうした整理を集団に適用しようとすることの難しさにも思い至る。

特に、分業や接点という概念を明確に扱ってこなかった組織に対して、これらの前提を一気に導入するのは、慎重さを要する。控えめに言っても軋轢や反発が起きやすく、仕組みや概念だけが浮いてしまう可能性もある。

そもそも「接点とは何か」「最低ラインとは何か」「どう共有するのか」という問いを一つひとつ立てるところから始めないと、変化は実装されない。それどころか、その過程で既存の人間関係や暗黙の構造が揺らぐ可能性すらある。

……とはいえ、こうしたもやもやを持ち寄って言語化しておくこと自体には、確実に意味があるのだと思う。

あとがき的まとめ

ここまで書いてきたことは、たぶんどこかに体系化された理論があるのかもしれない。組織論や協働論、分業設計のような領域を探れば類似の視点には出会える気もする。

けれど、それを“導入する覚悟”がないままに中途半端に持ち込もうとすると、むしろ空回りすることもある。現場で噴き出す軋轢や、理想論と実態との乖離──そうしたものを無視しては進めない。だからこそ、まずは「何が言えるか」ではなく、「何がうまく言えないのか」「どこがもやもやするのか」を整理する必要があるのだと思う。

この文書は、そのためのひとつの試みである。解決ではなく、観察と試行錯誤の記録として。


あとがきのあとがき。

さて、書いて無事思考整理はできたのですが、じゃあこっからどうしていこうかなぁというのが現在の悩みです。 まぁ落ち着きたかっただけなので、そのうち明日の私とかがいい感じに思いを具体化してくれると信じて納めておきます。 にゃ~ん(